発達障害の分野に関わっていると、「人間とは何か?」「人を理解するとはどういうことか?」「人の発達の多様性をどう理解すればいいのか?」など哲学的ともいえる問いが頭の中を駆け巡ることがあります。
私自身、これまでそして現在、重度の障害の方や高機能と言われる方など非常に多様な方との出会いがありました。
そうした現場経験から絶えず考えていることは「人を理解するとはどういうことか?」という問いです。
非常に抽象的かつ答えのでることが難しい問いであると思いますが、こうした問いを持つことで、日々の学びが加速する感じがしますし、直接的ではないにしろ、発達理解や発達支援の現場に何らかの良い影響がでると考えています。
そこで今回は、人を理解するということについて、主観性と科学性といったキーワードを活用しながら、私がこれまで考えてきたことについてお伝えしていこうと思います。
私が「人を理解するとはどういうことか?」という問いを本格的に考え始めたのは、療育施設に就職した頃になります。
当時の自分は心理学や発達心理学など大学で学んできたことを現場で活かそうと非常にやる気に満ち溢れた状態でした。また、とても子ども好きということもあり、日々の現場で子どもたちの関わりを楽しみしていました。
実際に働き始めて見て、子どもたちとの関わりは楽しかったものの、どうやって子どもたちを理解すればいいのか?ということが日々の悩みでした。
療育施設には、発語のないお子さんたちも多くいたため、そういったお子さんたちの非言語的な情報から、内面の心理をどう考えていけばいいのかなど、多くの問いが浮かびました。
現場で働く先輩職員は、そうした子どもたちに対して、気持ちの理解に焦点を合わせた議論を続けていましたが、私には学問的な理解もしていきたいという強い思いがありました。
そこで、一度ゼロから思考を始めることにしました。厳密にゼロには無理がありますが、これまでの固定観念などを一度捨て、再度考え直しました。
まずは、職場の人たちが多く使っていた「気持ちの理解とはどういうことか?」を考え始めました。
具体的には、子どもたちが泣いたり、喜んだりする背景にどのような気持ちの動きがあったのかということを考えることなのですが、私が考えたのは、こうした理解を少しメタ的に考えるということです。
つまり、気持ちの理解という状態をメタ的に考えることで、もしこの状態を説明可能なものまで引き上げることができれば、他の職員とより共有可能な情報まで高めていけると考えました。
そう思ったのも、子どものたちの気持ちの理解については職員間で非常に差があるものだと感じたからです。これは、関係性の面から言ってもあって当然なのかもしれませんが、まだまだ共有できる言語になっていないと感じました。
気持ちの理解の面で、私の納得感があったものとして、現象学的な理解です。これは簡単に言ってしまうと「自分の主観によって、相手の主観を読み取る」ということです。
こうした理解は、常に変化し続ける子どもたちの気持ちの変化を捉える視点としては、非常に優れたものだと思います。
一方で、主観だけで子どもたちの内面が理解できるのかという疑問もありました。こうした時に必要な視点が、科学的な視点です。
科学的な視点とは、例えば、人の発達の法則性や行動の法則性などを客観的な視点で理解しようとするものです。
当然、個人差があるため、科学的な理解は100%にはなりませんが、主観性を排除した視点として、自分の感覚だけに頼らない能力を鍛えるためには重要だと思います。
最後に、子どもの描画を例にとり、科学性と主観性という異なる立場から考えてみたいと思います。
一般的に、子どもの描画の発達には法則性があると言われています。それは、なぐり書きから始まり、点や線、円や人の形(頭足人)という過程で進みます。こうした発達の法則性の理解は科学的であり、客観的な視点だと思います。こうした理解は、子どもが描画の発達において、どの位置にいるのかという理解に役立ちます。
一方で、子どもが絵を描くことに興味をもった、絵を活き活きと描いている姿などは主観的な感覚からの読み取りが強く、これこそ子ども気持ちの動きを感じ取るという言葉がふさわしい状態かと思います。
私は、子どもを見る際に、こうした相反する理解を同時にしていこうと心掛けています。つまり、主観的な理解(現象学的な理解)と科学的な理解です。
もちろん、主観性と科学性は、子どもたちを理解するということだけにとどまらず、「人を理解するとはどういうことか?」という問いに対しても、多くのヒントを与えてくれるものだと思っています。
今後も、自分の身体経験を通した主観性と同時に、客観性という科学的な視点も大切にしていきながら、人への理解を深めていこうと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。