発達障害のある人たちと、療育(発達支援)の現場で関わっていると非常に個々によって育ちや成長が多様であると実感します。
日本の学校教育ではとかく、協調性など周囲に合わせることや、一般的な基準に沿った学び(学習の進捗)を重視する傾向があります。
しかし、今の時代は多様性(ダイバーシティ)が大切だとも言われます。
それでは、そもそも発達の多様性とはどのようなことをいうのでしょうか?
今回は、著者が発達障害の人たちと長年関わることを通して感じた経験を踏まえ、発達の多様性について理解することの大切さについてお伝えします。
今回、参照する資料は「田中康雄(2011)こころの科学叢書:発達支援のむこうとこちら.日本評論社.」です。
発達の多様性とは?
以下、著書を引用します。
よく知られている「みなんちがって、みんないい」という言葉は、境界線の崩壊を意味し、異質さへの無関心を生み出すか、パターナリズムを擁護しかねない。「みんなちがって、あたりまえ」という現状認識にたち、「違って当たり前、重なり合わない」他者との共生について、具体的に議論する必要がある。これこそが支援のむこう側にあるものかもしれない。
著書の内容から大切なことは、そもそも「みんなちがうのがあたりまえ」という視点です。この視点が前提となることで、個々の違いを認識しどのように共生していくかという本質的な議論の前提が生まれるということです。
著者は発達障害といったある種、少数派の人たちとの関わりを通して、そもそも生まれた時から、個々の発達は非常に多様であると感じるようになりました。
そのため、前提として、生まれた時からそもそも個々が違うというのは当たり前だという思いを療育現場で強く感じながらも、自分が受けてきた教育や大人が持っている価値観には多様性とは異なる面が大きくあるように思います。
それはで、次に著者の体験から、「みなんちがって、あたりまえ」という前提に立つことについて、さらに掘り下げて考えていきたいと思います。
著者の体験談:そもそも違うという前提に立つこと
個々の違いを理解していく過程から多様性を深めていくことも重要ですが、発達障害学の観点からは言えることは、そもそも人の発達は多様であるということです。
例えば、ASD(自閉症スペクトラム障害)を例に考えてみましょう。
ASDはもともと持っている脳機能の障害から、対人・コミュニケーションの困難さやこだわり行動などの特徴があります。
著者が関わるASDの子どもたちも、自分の興味関心が有意に経つ傾向があったり、人よりも物に注意が向いたり、人の感情理解も独特な面があります。
こうした特性(特徴)は、先天性であり、また、特性の強さも個々に応じて濃淡があり、成長の過程や置かれた環境下においても状態像が変わってきます。
ASDの特性一つとって見ても、違いがあり、ASDの中でも個々に応じて違いがあります。
さらに、ASDの特性は、その人のパーソナリティの一部であり全体ではありません。
それだけ脳の状態や発達は人によって多様だということです。
遺伝的・生物的に多様であると発達障害学の領域を学ぶことで理解が深まります。
しかし、日本社会は同調圧力が強く働き、そもそも多様性があるという構造にはなっているとは思えません。
個人個人が経験を通して、他者との違いを認識することも大切ですが、さらに重要なのは、そもそも違うのが当たり前という教育や文化が前提としてあるかどうかだと思います。
療育現場では、発達に躓きのある子どもたちが多くいるため、そもそも違うという前提に立って関わるのが当たり前になる(ならざるおえない)機会が多くあります。
もちろん、そういう著者も日本の同調圧力下の中で周囲に合わせながら生きてきたため、無意識化で周囲に合わせることや常識を子どもたちに向けて伝えようとしている面もあるかと思います。
しかし、既存の社会システムや教育などに懐疑の芽を向け、自分なりにできるところから、多様性が当たり前となる文化や社会を作っていきたいと思っています。
私自身、まだまだ学びの過程にいますが、療育現場で子どもたちと関わることを通して、これまでの常識を疑う目を持っていきたいと思います。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
田中康雄(2011)こころの科学叢書:発達支援のむこうとこちら.日本評論社.