著者は長年、療育現場で発達に躓きのあるお子さんたちと多く関わってきています。
その中で、子どもの思いや気持ちを理解することをとても大切にしています。
しかし、思いや気持ちを理解するとは一体どういうことなのか?を考えると、とても難しいことのように思います。
そこで、今回は、著者の療育経験を踏まえ、相互主体性といった視点から、子どもの思いや気持ちがわかるとはどのようなことなのかを考えていきたいと思います。
今回、参照する資料は、「鯨岡峻(2006)ひとがひとをわかるということ:間主観性と相互主体性.ミネルヴァ書房.」です。
療育経験を通しての問い
療育現場では、子どもの思いや気持ちをとても重視します。
思いや気持ちといっても非常に漠然としており、関わり手の主観によってくみ取られる面が強くあります。
著者の療育現場では、発語の無いお子さんや、話すことができても自分の気持ちをうまく発信することが難しいお子さんたちが多くおります。
ですので、療育現場では、関わり手の解釈が異なることがよく起こります。
例えば、○○君が泣いている理由に対して、○○さんはお腹がすいているからと解釈する一方で、○○さんは○○の遊びでうまくいかなかったと解釈するなどです。
このように解釈が異なるのは、関わり手の感性やこれまで身につけた知識や経験値なども影響しますので、多様であるのが自然だと思います。
それでは、様々な解釈がある中で子どもの思いや気持ちが「分かる」ことができるのでしょうか?
それでは次に相互主体性の視点から考えていきたいと思います。
相互主体性とは?
以下、著書を引用します。
「お互いに主体である者同士が関わり合うとき、そこに繋がりが生まれるときもあれば、繋がり得ないときもある。それでもお互いが主体として受け止め合えれば、そこに共に生きる条件が整う。それが相互主体的な関係なのだ」
著書の内容を踏まえて考えると、相互主体性とは、お互い主体的な存在のため、繋がりあうときもあれば(思いや気持ちがわかり合える)そうでない場合もあるという関係を意味していると言えるかと思います。
つまり、主体同士がわかり合える・合えないを相互に受け止め合う関係と言えるかと思います。
思いや気持ちは必ずしも「分かる」という点を強調するのではなく、「分からない」といったことも同時に重要だということです。
著者は、相互主体性といった概念に出会ったことで、これまで対人支援の中で思いや気持ちの様々な「分からなさ」といったことへの前向きな解釈ができたように思います。
それでは次に、相互主体性の視点が療育現場に活きた経験談についてお伝えします。
著者の経験談
子どものその日・その時々の思いや気持ちを感じ考えながら療育することはとても大切だと思います。
しかし、難しいのは、子もの思いや気持ちが「分からない」状態が長く続き関わりがうまくいかない場合です。
経験値も増し、なおかつ関わるお子さんと過ごす時間が多くなると、どうしもて「分かる」に焦点化されてしまうことがよく起こります。
私の中でこういった状態に陥ったことはこれまで何度もありました。
そんな時に、「相互主体性」といった概念に出会いました。
これを機に、これまで「分かる」に自分の意識が行き過ぎていたことに気づかされました。
「分かる」ことは裏を返すと「分からなさ」も内包しているといった表裏一体の関係であることが少しずつ理解できてくると、子どもの接し方にも余裕がでてきました。
それぞれ主体があり、思いや気持ちが通じ合う・分かり合えるときもあればそうでないこともあるというのは、何も諦めやネガティブな思考ではないと思います。
そもそも異なる主体であるため、自然なことであるということです。
もちろん、子どもの悩みや困っていることを必死に考えることはとても必要なことです。
大切なことは、その中で、「分かる」ことはもちろん重要ですが、「分からない」ことも大切にしていくということだと思います。
私自身、子どもたちとの関わりを通して、自分が成長したと実感できたきっかけには、「分からなさ」が常にあったように思います。
「分からない」から考えようとしますし、その子のことをもっと理解しようとするのだと思います。
以上、療育経験を踏まえて、相互主体性の視点から大切だと感じることをお伝えしてきました。
発達に躓きのある子どもたちの状態像は非常に多様です。そのため、主体同士の関係性も多様に存在します。
私自身、まだまだ未熟ですが、今後も「分かる」以上に「分からなさ」を大切にしていき、さらに発達への理解を深めていきたいと思います。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
鯨岡峻(2006)ひとがひとをわかるということ:間主観性と相互主体性.ミネルヴァ書房.