発達障害の分野に関わっていると、障害とはそもそも何であるのか?ということを考える機会が多くあります。
障害というとネガティブなイメージが思い浮かぶかと思いますが、障害があろうとなかろうと、AさんはAさんであるし、BさんはBさんなのだと思います。
ただ、生きにくさを理解し支援を受けるために、障害という理解も必要であり、障害はその人の全体ではなく、一部というイメージで私は理解しています。
また、障害もサポート環境や時代に応じて変わるということです。
私自身視力が悪くコンタクトを使用していますが、メガネやコンタクトが仮になければ障害という立場から支援を受ける必要がでてきます。
近年はICTの進歩や普及によってこれまで障害だとされていたことが、軽減あるいは克服できる場合も増えてきました。
今回は私が発達障害児・者との関わりから、障害を理解することと、その人のパーソナリティを理解することについて、その大切さをお伝えしていこうと思います。
こうしたテーマをお伝えするにあたり非常に考えさせられた弟の事例を取り上げたいと思います。
私には発達障害の診断を受けた弟がいます。仮にここでAとします。
Aが診断を受けたのは高校入学時頃になります。幼い頃は、少し成長がゆっくりでしたが、特段心配することは少なく、いずれ周りにおいつくと考えていました。
しかし、学業の面や友達付き合いなどの対人面で遅れが目立ち始めました。困り感が徐々に顕著になってきましたが、当時は、今と比べても発達障害という概念の理解や支援体制などは非常に進んでいなかった時代でした。
そういった時代の影響もあって、診断が非常に遅れるという結果になりました。
私は、Aが診断を受けたときには、障害者という言葉に非常に抵抗したのを覚えています。
心の中で“障害者ではない”という思いが込み上げてきました。頭で理解しようとしても体での理解が難しい状態でした。
なぜ抵抗を示したのか、今思うとAの痛みが分からなかったこと、そして、兄が傍にいれば守ってあげられると安易に考えていたからだと思います。さらに、今後、“治るのではないか”とさえ思っていました。
そして、障害という言葉への抵抗が一番強かったと思います。
障害との付き合い方に応じて症状の強弱が変化するということはあっても、治るということ非常に稀なケースかと思います。
ただ、こうした障害への抵抗感を持ちながらも良かった点としては、Aが何が好きで嫌いなのか、何を頑張ってきたのか、苦労してきたのかなど、非常にパーソナルな点についてはよく家族間で議論してきたことだと思います。
もちろん議論だけではなく、Aとの関わりが幼少期から密にあったことや家族が寛容にAを受け止めていたことも、Aというパーソナリティを理解する上で重要なことだったと思います。
ですので、私が障害受容したと感じた後も(かなり時間がかかりましたが)、障害はAの困難さの指標であり、こうした診断を受けることでより生きやすくサポートを受けられるためのものだと考えるようになりました。
昔も今も障害者という枠でAを見ることはありません。Aというパーソナリティを見て感じ、その中の持続する困難さを障害という視点で見ています。
障害者のAでなく、Aの中に持続する困難さ(障害)があるという理解です。
こうした視点は今の発達支援の現場で発達障害のある方と関わるときにも同じことが言えます。
“この子ってこういう子だよね”、“こういうことが好きだよね”、“得意だよね”、“苦手だよね”など、こういったことを話しているときはパーソナリティを意識している感じがします。
私はAについて語るときに、パーソナリティについて話しながら、その中で、持続性の高い困難さについて語ることが多いです。
両方を区別することは難しいですが、関わりが増えてくると、パーソナリティの要素が徐々に強くなってくる感じもしています。
一人ひとりのパーソナリティがまずあります。そして、その中で困っていることがある種、障害という言葉で説明されるのだと思います。
パーソナリティを理解することは非常に難しいです。それは日々の関わりから見えてくることが多いと感じます。
最後にこの記事を書いていて、パーソナリティや障害という概念が非常に難しいものだと再認識できました。
それは、一人ひとりが多様であり、時代や社会、環境の影響によって変化するからです。
私自身、今後も、障害への理解も大切にしながらも、一人ひとりのパーソナリティ(人格)も同時に理解できるように日々の関わりを大切にしていきたいと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。