発達障害についての書籍やニュースなどが増える中、発達障害は特殊な能力や才能がある、また、天才であるという内容のものを見かけることがあります。
歴史上の偉人と言われる人たちを見ても、確かに発達障害であった、あるいは、その可能性があった人物は決して少なくないと思います。
周囲を気にせず一つのことにのめり込む能力、様々な新しいことに挑戦する行動力、多くの人が気づかない所に着目しそれに対して考え続けることができる発想力と集中力、知能が非常に高いギフテッドと言われる人たちなど、これまで、そして、現在の偉人と言われる人たちには、こうした特徴がある人が多いのも確かです。
一方、発達障害の方の中には、障害特性をうまく社会の中で適応させることが難しく悩み・苦しんでいる方が多いのも事実です。
私自身、これまで多くの発達障害の方との出会いや共に仕事をすることを通して、多くの気づきがありました。
彼らの多くは、自分の発達特性・障害特性をどのように活かしたり、周囲からどのようなサポートをもらえばよいのかを日々悩んでいます。
発達特性・障害特性という認識も少しずつ社会の中に浸透してきています。例えば、ASD特性、ADHD特性などは最近非常に身近になってきたものとしてあります。
一方で、障害の併存や、知的能力について理解、不器用さ、視覚性の認知など、まだまだ理解の面で課題も多くあると思います。
発達障害の人たちの中には、障害がわかりにくい人たちも多くいます。そうした人たちは、「普通」と思われ、周囲からの援助やサポートを受けることが難しいケースも多く見られます。
この「普通」という用語が厄介であり、必ずそこには何らかの個人的な基準や尺度や指標が入るので、完全な「普通」はないことを前提にしても、人は何かの基準で判断しようとする傾向があるということです。
問題となるのは、ある基準に押し込まれたときに、その基準が本来その人の状態像と非常にズレている場合には、良い理解と支援を得ることが難しくなってしまうことです。こうした悪循環が繰り返されると、自尊心の低下や二次障害などに繋がってしまいます。
発達障害はその特性上、環境次第で確かに特別な能力や才能に開花することもあります。
一方で、発達障害の多くの人が社会の暗黙の了解や基準の中で悩んでいることは事実であり、そうした人たちへの理解が今後ますます必要になってくると思います。
私自身、障害特性を抱えながら、発達障害の弟を持つ身としても、今後、さらに深い発達障害への理解を目指していきたいと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。