発達障害があっても「生きづらさ」が目立つ場合とそうでない場合があります。
ASやADHの特性はあるが日常生活で「困り感」がないと障害とはならず、むしろ、こうした特性を生かして自身の能力を発揮している場合もあります。
それでは、発達障害の「生きづらさ」とはどこからくるのでしょうか?
今回は、著者の療育経験も踏まえ、発達障害の「生きづらさ」について考えていきたいと思います。
今回、参照する資料は「田中康雄(2011)こころの科学叢書:発達支援のむこうとこちら.日本評論社.」です。
発達障害の「生きづらさ」について
以下、著書を引用します。
発達障害のある子どもの「生きづらさ」とは、医学的判断が不在の間は、障害をもって生まれながら、何も知らずに、健常児として育つことで生じる「うまくいかなさ」であり、判断後、特に自分自身が障害の存在を知ってからは、医学的診断のために一旦排除した(された)自らの一部を、再度どのように組み入れるかという作業にある困難さである。
著書の内容を踏まえて考えると、発達障害のある人の「生きづらさ」は、定型児と同じように周囲と合わせることを求められる環境の中での「うまくいかなさ」、「困り感」であり、後々、診断を受け(特性を知って)再度、自分を自己理解・修正する作業だと言えます。
ここでのキーワードは、周囲の環境と合わない、特定の配慮を受けにくい、診断後遅れた自己理解が必要というものです。
また、こうした要因から生じる自己否定感や劣等感が積み重なることも心理的要因として大きな問題です。
それでは、次に著者の療育経験からこれらのキーワードをもとに、発達障害の「生きづらさ」について考えていきたいと思います。
著者の経験談
発達障害の診断は、あくまでのその子の理解を進めるものであり、支援やサポートを受けやすくなるという利点が得られるために行うものです。
こうした判断がなされず、合わない環境(周囲に合わせることを求められ)で、特別な配慮を受けずに育つと心理的問題など二次障害に発展することが多くあります。
著者が長年関わるAさんもまた診断が遅れた(理解が遅れた)ケースです。
そのため、Aさんは小中時代に、周囲に合わせることを求められる環境の中で、自力でなんとか周囲に遅れまい・追いつこうと必死にもがかざるおえない状態が続いていました。
このように必要な理解がなされないと特別な配慮を受けることが難しくなります。
これが「生きづらさ」に繋がります。
「生きづらさ」は誰にもあるかと思いますが、Aさんの場合にはもともと持っている特性上の問題があり、それを周囲が知らなかったこと、そして、こうした状態が長期化したことから問題が生じてきました。
その後、Aさんは心理的要因から、精神的にダウンしてしまうことが増えていきます。
その後、診断を受けたAさんは、自己理解を進め自分への捉え方を再構築し、また、福祉のサービスも受けながら、徐々に前向きに進むことができるようになりました。
Aさんのケースから、合わない環境に身をおくことが本人において「生きづらさ」を増長してしまうことから、できるだけ早期からその子に合った環境や配慮を受けることが大切だと実感しています。
目に見えない心理的な劣等感や自己否定感は簡単に払しょくすることができないものであり、また、本人と周囲がそれを理解することは簡単ではないからです。
早期の理解は何も診断をすれば良いというわけではなく、そこ子に合った環境や配慮を行っていくことがとても大切になります(そのための診断でもあります)。
そうした関わりを受ける中で、「生きづらさ」を減らしていくことがとても大切だと思います。
それは何も特別な支援ではなく、日々の「生きづらさ」を理解し、生活の「困り感」を軽減することだと思います。
その中で、本人の良さや楽しさを見つけていくことが理解や支援において専門家と言われるスタッフに求められることだと考えます。
以上、発達障害の「生きづらさ」について、事例を取り上げながら考えてきました。
日々の「生きづらさ」を理解し支えるには相当のエネルギーが必要です。
私自身、こうしたことで苦慮されている、本人とそのご家族の力に少しでもなれればと思っています。
もちろん、関わるスタッフも同様にチーム支え合う・助け合うということが必須です。
今後も、私自身まだまだ未熟ではありますが、発達障害の「生きづらさ」について、現場でできる日々の取り組みを考え、実践していきたいと思います。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
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田中康雄(2011)こころの科学叢書:発達支援のむこうとこちら.日本評論社.