療育現場などで障害のある子どもたちと接していると、どのようにして彼らの発達を理解することができるのかという問いが生じることがあります。
私自身、療育施設に勤務していた頃に、この問いを日々考えており、その中で、「感覚と運動の高次化理論」との出会いがありました。
「感覚と運動の高次化理論」とは、宇佐川浩先生が淑徳大学臨床発達研究センターで、発達につまずきのある多くの子どもたちとの関わりをもとに、長年にわたって作り上げた理論となります。
詳しくは「感覚と運動の高次化理論について」に記載しています。
その中に、私が腑に落ちた子どもの理解の仕方についての記載がありました。
以下に「障害児の発達臨床Ⅰ感覚と運動の高次化からみた子ども理解」から引用したいと思います。
この文章に非常に着目した理由としては、客観的な視点と、主観的な視点の双方が組み込まれているからになります。
当時の私は、子どもたちの変化する心情をどのように言語化できるのかという問いをもっており、その中での一つの解が間主観的理解でした。
間主観的理解とは、自分の心情を大切にするという視点であり、自分の主観によって相手の心情を読み解くという理解様式になります。
現場で非常に気持ちの変動がある子どもたちを理解するためには、常に、自分の心情と相手の心情とのズレや変化などを察知する能力が求められます。
一方で、こうした主観的理解だけではなく、客観的理解に対して何か障害児を理解する方法などはないかという問いがありました。
つまり、子どもの発達を捉える視点として、主観性も大切にしながらも客観的理解をどのように知識として学んでいくかということです。
それも、障害の程度が重いお子さんたちの発達を理解する視点です。
その認識を高めてくれたのが先ほど紹介した「感覚と運動の高次化理論」になります。前文の引用に引き続き著書の中で次のような記載があります。
この内容を見て、両者の視点の違いを認識しながらも、同時にどちらの視点も大切にすることで、人の発達の理解に近づけるということに気がつきました。
視点の違いを理解することは、様々な考えのある人との対立構造を読み解き、それらを解消、あるいは、両者を超える視点への気づきに繋がる可能性を秘めています。
そして、「感覚と運動の高次化理論」は、客観的理解として、障害の程度の重い子どもの発達を捉えるための有益な情報が多く盛り込まれていました。
この理論のおかげで、私の相手の子どもたちへの偏った考え方がだいぶ修正・理解されたのではないかと思います。
今では、子どもの発達を捉えるために、時には主観的理解を大切に、時には客観的理解を大切にするなど、自分がどういったフレームで相手を理解しようとしているのかを意識的に認識するようになりました。
今後も様々な視点の違いを認識し、より深い人間理解を目指していきたいと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
宇佐川浩(2007)障害児の発達臨床Ⅰ感覚と運動の高次化からみた子ども理解.学苑社.